広告制作者のココロ持ち

前回のコラムでは生活者視点について書き、最後に広告制作には愛がなければならないと書いた。『愛』というと哲学的で抽象的なので、少し具体的に書いてみようと思う。

世の中にある商品やサービスは、単に営利目的ではないと仮定して、大企業から零細企業が提供するものはすべて、社会に資する『目に見える愛のカタチ』であるとする。

であれば、商品やサービスは、それらを提供する企業の『愛の塊』であると言うことができる。

例えばカップラーメンという商品。カップラーメンばかり食べていると健康によくないことは言うまでもない。しかしカップラーメンを製造・販売している企業の思いは、ちゃんと食事が摂れるまでの繋ぎとして、手軽に空腹を満たし、とりあえずの栄養を摂ってほしいという『愛情』からカップラーメンを提供していると思う。

例えば宿泊というサービス。ホテルや旅館の思いは、旅先でしばし日常生活を忘れ、少しでもゆったりと寛いでリフレッシュしてほしい、あるいは素敵な思い出を作ってほしいという『愛情』から、料理や設備、眺望などを通して宿泊というサービスを提供していると思う。

このようにクライアントが提供する商品やサービスは『愛の塊』であるから、クライアントにとって、それはそれは

“可愛い大切なもの”

であることを、広告制作者はまず理解しなければならない。さらに、クライアントは(無意識に)可愛さ余って親バカのような心境になっているから、広告には『あれも言いたい、これも言いたい』となりやすいことも理解しなければならない。

しかし悲しいかな、他者(生活者)はそれらを聞いたところで『へぇー、そうなんだぁ』ぐらいしか思わないものだ。だからこそ、可愛いところはいっぱいあるんだけど、中でもここが飛び抜けて可愛いんだよね、と言ったほうがいい。なぜなら、ここが飛び抜けて可愛いと言われると、人は『どこどこ?』と好奇心をくすぐられ、見てみたくなるのが人情だからだ。我が子や恋人に置き換えるとわかりやすいかもしれない。我が子の可愛さ話や恋人のノロケ話を聞いた他者は、どういう反応をするか言わずもがなである。

広告制作者は親バカなクライアントが他者から嗤われたり、呆れられたりしない親であってもらうために、(可愛い大切な)商品やサービスに共感しつつ、他者視点で褒めることが求められる。簡単に言えば『この部分は本当に可愛いから、見たほうがいいよ』という口コミのような具合だ。

そのためには「そんなこと言っても見られませんよ(聞いてもらえませんよ)」とか「こういう言い方や見せ方のほうがいいですよ」「あえて全部見せないほうが(言わないほうが)いいですよ」といった、

愛のムチ“も”

必要になってくる。

クライアントの言うことをただ聞くことは『やさしい虐待』のようなもの

だと思っている。俯瞰して見た時に結果的に独りよがりな広告になってしまうから、クライアントのためにならないし、生活者のためにもならない。

広告制作者は広告を制作している瞬間、クライアントの次にクライアントの商品やサービスについて誰よりも最もよく考え、心を砕き、いかに価値ある商品であるか、いかに優れたサービスであるか、それをどう伝えるかに心血を注ぐ。

時々コンサルタント業と似ていると言われるが、似て非なるものだ。コンサルタント業は医師みたいなもので、広告制作者は(偉そうで恐縮だが)教師みたいなものだと言えばどうだろう。教師(広告制作者)は保護者(クライアント)と深く関わり、共に子供(商品やサービス)をいかに育むかを考える。医師(コンサルタント業)は患部(非効率・負債など)をいかに治療(改善・是正)するかを考える。医師(コンサルタント)と教師(広告制作者)とでは『愛情の表現方法』が違うことは明白だろう。

最後に独断と偏見だが、広告制作者の愛がよく表れていると思う広告を挙げたい。新潟県に本社を置く佐藤食品工業株式会社という企業がある。有名な商品なので知っている人も多いと思うが、この企業の商品に『サトウのごはん』がある。

玄関開けたら2分でごはん

というコピーを聞いたことがあると思う。クライアントは『電子レンジで2分温めれば食べられるスゴいご飯なんだよ!』と言いたいのは容易にわかる。便利なのはわかるが、生活者にはこの【スゴさ】がイマイチ伝わらない。そこで、『玄関開けたら』と前に付けることで『そうか!帰宅して2分で食べられるということか!』と具体的に想像できるようにした。これは商品価値をいかに引き出すか、生活者視点ではどうなるのか、という広告制作者の『サトウのごはん』への愛が生んだ好例だと思う。

メンタルサポート事業部

生活者視点

広告は誰が見るかを考えた時、それぞれターゲットの違いはあるものの、共通しているのは一般の生活者であることだ。法人の場合もあるが、いわゆる街に溢れる多くの広告は生活者が対象だ。

クライアントは商品やサービスの良さ(価格・品質・機能・性能・耐久性などなど)を伝えようとする。至極当然なことだ。ただ、良さをアピールしようとすればするほど、時に細部にまで至る場合がある。そうすると、生活者から見ればいろいろあり過ぎて、印象にすら残らない結果になる。

新聞広告や雑誌広告などは、良さを言おうとすればするほど文字情報や写真が多くなる。生活者はその瞬間『読むのが面倒くさい』と思うか『ただスルー』され、何れにしても飛ばされてしまう。つまり新聞広告や雑誌広告はページをめくった瞬間に判断されてしまうから、テレビCMよりシビアだ。

印刷されている広告を俗に【紙媒体】というが、紙媒体はどんな媒体であれ、スペースが限られている。たくさんアピールポイントを入れ込もうとすればするほど、ひとつひとつのアピールポイントは自ずと小さくなり、全体の見た目としてギッチギチな広告になってしまう。こうなると、

大抵の生活者は読もう(見よう)と思わない。

そこで重要になってくるのが、広告制作に携わる者の

生活者視点

で、クライアントの最も身近な生活者として、広告を制作しなければならない。

私は基本はクライアントの意向を重視するが、生活者視点で見た時に『これは読まれない(見られない)』と思ったら、忌憚無く意見し、商品やサービスの良さの中でも目玉となるアピールポイントに絞ることを進言するように心がけている。

まず見てもらわなければ話にならない。

興味関心を抱いた生活者のために、細部の良さを丁寧にアピールする媒体としてWEBサイトを活用していく。WEBサイトは紙媒体と違って動画も掲載でき、より生活者の理解を促進させることができる。

クライアントの意向をそのまま聞いて制作してしまうと、ほぼクライアントの独りよがりな広告になってしまうことが多い。クライアントだけが満足し、生活者にとってわかりにくい、見づらい広告になってしまうのは本末転倒というものだ。

そうならないためにも、広告制作に携わる者が生活者視点で時に意見し、提案し、クライアントにも満足してもらい、同時に生活者にも苦にならない広告を制作しなければならない、とても責任のある立場だ。

そのためには、ベタな言い方で恐縮だが、

がなければいけないと思っている。

メンタルサポート事業部

広告制作はほぼ【論理】

広告の制作をしていると、時々「感性が豊かでないとできない仕事だよね」と言われることがある。確かに必要な要素ではあるが、それだけではない。

一部の職種、例えばグラフィックデザイナーやコピーライター、フォトグラファーには【感性】という部分が確かに必要になる。特にグラフィックデザイナーはデザインの専門学校や美術大学の出身者が多いことからもわかる。

私はグラフィックデザイナーではない。クライアントと制作スタッフの間に立つクリエイティブプロデューサーという立場だ。簡単に言えば、予算管理、進行管理、コンセプト策定、外注管理など広告制作全体をコントロールしたり統括することが仕事だ。これは美術大学など専門の学校を出ていなくてもできる。現に私は一般の四年制大学文系学部の出身だ。どの学部を出ているかは問題ではない。

感性だけではないと書いたが、それはなぜかというと、クライアントは表現に「なぜ?」と聞いてくることがほぼ確実で、根拠を知りたがる。ギャランティを払う側ということもあるが、むしろ意図を知り、理解、納得し、自分達による広告だと思いたいからだろうと思う。クライアントに代わってクリエイターが作った広告に対して、自分達が出す広告だという自覚と責任の表れだと理解している。

そのためにも、そこで感性の次に問われるのが表題にもある

【 論 理 】

だ。むしろ表現に【論理】がないと仕事にならないと言っていい。例えば「なぜ赤なのか?」と問われた時、論理的説明が必要になる。『何となく赤』だとイメージと違えば変更を要求される。しかし【論理】があれば『なるほど』となり、イメージと違っても納得を得られやすい。それでも変更を要求されることもあるが、赤を活かしつつになることが多い。

そういう論理が表現全体に必要になる。「なぜこの書体なのか?」「なぜこのコピーなのか?」「なぜ背景はこの写真(イラスト)なのか?」「なぜこのコピーの位置はここなのか?」などなど・・・。

こういう問いに論理的に説明ができなければいけないのが広告制作で、そういうやり取りをするのは、クリエイティブプロデューサー(あるいはクリエイティブディレクター)の役目になる。場合によってはアートディレクターが説明する。それゆえ、クリエイティブプロデューサーなどはデザインの専門学校や専門大学を必ずしも出ている必要はない。

基本的な感性を先天的に兼ね備えているに越したことないが、広告的感性は実務をこなしているうちに何となく身に付く。一方で私の立場は、エンドユーザー感覚を持ち合わせていることも必要だと思っている。つまり実際に広告を見る人の感覚、素人感覚の役目があるということだ。感性ばかりに長けてしまうと、いわゆる素人感覚と乖離してしまい、実際に見る人との間にズレが生じてしまう。広告は芸術作品ではない。

なぜ論理が必要になるのか。それは広告制作には必ずコンセプトがあるからだ。要するに“どういう広告にするか”ということ。

コンセプトは広告を制作する上での軸

となる。その軸がないと、表現が無限にあるだけに後々迷走し、疲弊することになる。

まず広告のコンセプトを考え、クライアントに提案、了承を得た上で、クライアントも含めて全員と共有しながらコンセプトに沿って制作していく。論理説明の拠り所にもなるので、コンセプトの設定は極めて重要となる。

木に例えると、コンセプトは広告制作の『幹』であり、その幹に沿ってデザインを考え、コピーを考え、全体のレイアウトを考えていく。それらは『枝』になる部分だ。幹となるコンセプトを考えることは意外と地味な作業だが、枝を伸ばすには無くてはならないものだから、最も肝となる作業と言っても過言ではない。

多くの人が関わる仕事でもあるから、コンセプトは旗印的な役割もある。迷ったらコンセプトに戻ることもあるし、コンセプトが明確で揺るぎないほど、論理的な広告制作が容易になる。私なりの言葉で表現すれば『美しく美しい広告』を制作できるということになる。

広告は感性と論理でできており、制作の現場では論理が常に求められる。時々問題になり中止や削除に追い込まれる広告もコンセプトはあったはずだが、枝の伸ばし方に社会との認識のズレがあると、批判や非難を誘発してしまう。あと一歩踏み込んで考えれば回避できたかもしれない、このあと一歩こそ【感性】の部分だろうと思う。

しかしながら、こうしたことはあらゆることに通底しているのではないだろうか。新商品や新サービスを考える時、必ずコンセプトを考える。飲食店における新メニューにしてもそうだ。コンセプトは物事を始める時の、

羅針盤

になることは無意識にせよ経験的に知っている。プライベートにおいても無意識的にコンセプトを考えている。そこには必ず論理がある。

メンタルサポート事業