『人生会議』ポスター問題を考える

厚生労働省の『人生会議』啓発・普及ポスターが問題になって、掲載中止になった。

『人生会議』という言葉にまずギョッとしたのが、私の第一印象だった。実際には掲載中止になったから、インターネットのニュースで初めて見た。

ガン患者やその家族に支援をおこなっている団体からの抗議が報道されて以降、多分いろいろあって掲載中止になったのだろう。しかし私はその抗議に同調する気にはなれない。なぜなら、ポスターがガンによる死を前提にしているとは思えないのに、抗議内容はあたかもガン患者を前提にしていると言わんばかりで曲解しているように思えたから。ポスターのターゲットは、いわゆる今まさに元気に仕事や勉学に励み、生活を謳歌している一般の老若男女だ。

このポスターについて、いろいろな記事を目にするが、広告制作に携わっている者として、私なりに制作者視点で考えてみたい。

よく見た上での印象は、吉本興業が制作したこともあり、吉本興業主催の喜劇のポスターのように思えた。そうであるなら面白いと思う。しかし、厚生労働省の啓発ポスターとして見た時、どこか違和感があった。その違和感とは、国民の生命に係わる行政を担う官庁にしては、いささか『軽いな』というものだった。

表現に違和感を感じる。

問題のポスターの表現は、当事者本人の嘆きのコピーと、それを言っている当事者役の芸人のどうにもならない歯痒い顔があり、心電図のようなグラフィックのラインで死を思わせている。とはいえ全体的な印象はコミカルだ。ターゲットが元気な一般人であることを思うと、一定の理解はできる。シリアスな内容だけに真面目なお堅い表現にすれば見られないと考えたのだろう。しかし、コピーにもある『命の危機が迫った時』の複雑な感情が入り混じるであろう設定の表現にしては、コミカルに過ぎると思えてしまう。この、

『命の危機が迫った時』の扱い

がしっくりこないのだ。

例えば、コピーは当事者視点ではなく、残される側視点がよかったのではないか。『残される大切な人に後悔させたくない』と思わせるコピーのほうが、

婉曲的で深い意味を持たせることができたのではないか

と。ただインパクトは薄れてしまうかもしれないが・・・。

ビジュアルにしても、モデルのキャラクターも手伝って一見当事者を茶化しているように見えてしまい、ちょっとした揶揄に見えなくもない。むしろ、残される側の姿にフォーカスしたほうが、ここでいう『人生会議』をしておくことの意義に

説得力を持たせることができたのではないか

と思える。

あるいは思い切って、

コピーだけでもいい

ようにも思う。

元々は『アドバンス・ケア・プランニング』と言われたものを一般に馴染みやすくするために『人生会議』という愛称に変更したようだ。『会議』という言葉を使うところが役人らしいといえば役人らしいが、ビジネスライクであたたかみに欠け、無機質で乾いた感じがしないでもない。

厚生労働のホームページを見ると「もしものときのために家族・大切な人、そして医療者と話し合っておきましょう」というのがコンセプトのようであるから『会議』としたかもしれない。ただ人生や命はウェットなものであり、フィロソフィックなものであると思うから、ビジネスライクな『会議』という言葉との結合は馴染まないように思う。

コンセプトから考えた時、例えば『もしもプラン』『三者計画』『充実ケア』のような言葉が浮かんだ。そのためには会議と言わずとも家族などと話し合いはおこなわれるわけだから。

今回の問題でクライアントである厚生労働省にしても、制作した吉本興業にしても、双方に共通して感じたことは、

生への深慮と命へのデリカシーの不足

だった。

それから委託費という4,070万円もデリカシーのない金額だ(笑)

長月の雨音

水曜日は雨だった。朝は少し薄日が差していたように思ったが、昼が近づくにつれ、空は雨雲に覆われた。そしてまもなく雨が降ってきた。

風はなく、雨音だけが聞こえる。よく聞くと、やさしい音をしていた。やわらかく瑞々しい音。雨粒は夏のそれとは違い小粒で耳に心地よい音だった。好きな雨だった。

叩きつけるような暴力的な雨ではなく、渇いて生気が衰えたものをやさしく励ますような雨。雨音に癒される思いがした。

科学的には秋雨前線が云々なのかもしれないが、そんなことはどうでもよかった。夏の陽射しに照らされ続け、疲れた木々の葉に雨粒が当たり、雨音はその木々の葉が喜んでいるように聞こえてくる。だから耳に心地よく、穏やかな気分になるのか、と一人腑に落ちてみたりする。

ふと小説を読みたい衝動に駆られた。紙の匂いと長月の雨音は相性がいい。微かに香る雨の匂いは、あたかも一輪の花のような見えない彩りを添えた。

夕刻が迫るにつれ、雨は止んでいった。もう少し降っていてほしかったが、この自然の気まぐれを受け入れるしかない。受け入れた時、この日の雨がもたらした心情への影響は大きかったと気づく。

スーパーマーケットにて

時々、スーパーマーケットへ行く。言うまでもなく買い物をしに行くのだが、最近スーパーマーケットが楽しいと感じている自分に気づいた。

タイムセールなど何かイベントがあるからでも名物店員がいるわけでもない。ただ陳列棚にある商品を見るのが楽しいのだ。

商品がそれぞれに『見てくれ!』と言っている。

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鮮魚コーナーは水族館か博物館にいる気分になったりする。秋刀魚を見て、こういう形をしているのか、とか、『秋刀魚』という漢字を頭に浮かべながら実物を見てはよく言ったものだなぁと感心したり。鰯を見て、意外と大きいな、水槽で飼うには無理だ、と思いながら小魚という認識が吹っ飛ぶ。

カップラーメンは面白い。パッケージを見ているだけで、美味しそうというよりワクワクしてくるのだ。デザインや書体、ネーミングを見ていると、各メーカーの苦心の痕が窺える。

無機質な会議室で大の大人が難しい顔をしながら、あーでもない、こーでもない、と言い合った末のものが目の前にあるのかと思うとクスッとなる。そして、いつしか

それらのカップラーメンが愛おしくさえ思えてくるのだ。

精肉コーナーでは鶏肉、豚肉、牛肉がさまざまな部位に切り分けられている。ムネやらモモやら、ロースやらバラやら、国産やら米国産やら。肉の色ってキレイだな、どんな牛や豚だったのかな、鶏ってマッチョなのかも、可愛かっただろうな、そう思いながら命を考えてしまい切なくなったり・・・。

それでも食べたいと思う自分の食欲を嫌悪して、そっとため息をついたりしている。

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もはやスーパーマーケットはただ買い物をする場所ではなく、悲喜こもごもが味わえるちょっとした劇場だ。