ある出来事と業界の悲哀

今日、12月25日は個人的にちょっと何とも言えない苦々しい日だ。

話は4年前に遡る。

私が広告業界に入ったのは20代半ばで、広告制作会社だった。電通と仕事をしたこともあった。その電通に勤務していた新入社員が4年前、自殺するという痛ましいことが起きた。そのニュースを聞いた時、広告業界に身を置く端くれとして思うところがあった。私がメンタル・イデア・ラボという事業を立ち上げたのも、この不幸な出来事と関係ないとは言えない。

劣悪な労働環境の中で働かせる企業を、世間では『ブラック企業』という言葉で揶揄しているが、その風潮を踏まえると、広告業界は業界そのものが

ブラック業界

だと言える。

ただ、広告業界のブラックな状態は

企業努力でどうにかしようとしても、どうにもならない構造になっている。

この業界全体の構造を是正しない限り、広告業界はいつまでもブラック業界のままだと思う。電通は4年前の新入社員以外に、1991年にも入社2年目の社員の自殺者を出している。それでもなお、電通は今も労働基準監督署から違法残業を指摘され是正勧告を受けている。私は電通だけが違法残業をさせているとは思っておらず、他の広告会社も似たり寄ったりだと思っている。

なぜか?広告業界の特徴と言ってもいいかもしれないが、広告業はサービス業で、クライアントの要望を果てしなく聞こうとする傾向が強い。そういう業界体質と言ってもいいかもしれない。酷い話では、本来クライアント自身で作成すべき社内会議の資料を広告代理店に丸投げして作成させる、ということもあった。もちろん無償だ。広告代理店側は『その代わり仕事くださいね』という下心があるのは言うまでもない。カシ・カリ関係にも似た関係をクライアントと永遠に築き続ける業界と言い換えることもできる。

広告制作という仕事は、クライアントから広告を制作するために必要な資料などを提供してもらうのだが、その資料がスケジュールどおりに提供されることはまずない。ほとんどの場合、遅れて提供される。しかし

締め切りの日は変わらない

から、制作現場は常に巻きの状態になる。無理なく締め切りに間に合うようにいくらスケジュールを組んでも、クライアントが守ってくれなければ、絵に描いた餅なだけだ。

例えば、資料の提供日の終業時間近くに提供されたら上出来なほうで(それでも終電近くまで残業する羽目になるが)、大概は翌日に提供される。そして制作したもののチェックの返答が1〜2日ズレることもザラだ。こういうスケジュールのズレは土日を潰して帳尻を合わせ、締め切り間近ともなれば徹夜をせざるを得ない日が続く。

つまり、

クライアントがスケジュールを守ってくれることがない限り、いつまでも広告業界のブラック状態は是正されない。

夕方に資料を提供しておいて「翌日朝一で提出して」と平気で言ってくるクライアントは意外にも多い。制作現場は終電までに終わらせるか徹夜するしかないが、到底終電までに終わるような内容ではないため、徹夜になることが多い。あるいは、金曜日の夕方に依頼し月曜日の午前中までに、というクライアントもザラにいる。その場合、土日を潰して対応することになる。

私の経験では広告代理店に「テッペンにミーティングするのでお願いしまーす」と言われたことがある。テッペンとは深夜0時のことだ。以前テレビ局にいたせいか、テッペンに打ち合わせをすることにヘンに慣れていて、フツーにミーティングした。一般的にはあり得ないだろうと思う。

※テッペン:業界用語で時計の12時の位置が最上だからテッペンと言われている。テレビ業界でも使われていた。

過労自殺した遺族の意見は正しいし、気持ちも痛いほど理解できる。しかし電通一社の企業努力ではどうにもならない構造がある限り是正はされない。クライアントの意識も同時に変わらない限り、こうした悲劇は残念ながら続くと思われる。電通の特異な体質が問題の本質ではなく、経済界全体の意識が問題の本質ではないだろうか。

今般の『働き方改革』で受注する側の企業の社員が犠牲になることはあってはならない。発注する側の企業倫理が問われている。

広告制作はほぼ【論理】

広告の制作をしていると、時々「感性が豊かでないとできない仕事だよね」と言われることがある。確かに必要な要素ではあるが、それだけではない。

一部の職種、例えばグラフィックデザイナーやコピーライター、フォトグラファーには【感性】という部分が確かに必要になる。特にグラフィックデザイナーはデザインの専門学校や美術大学の出身者が多いことからもわかる。

私はグラフィックデザイナーではない。クライアントと制作スタッフの間に立つクリエイティブプロデューサーという立場だ。簡単に言えば、予算管理、進行管理、コンセプト策定、外注管理など広告制作全体をコントロールしたり統括することが仕事だ。これは美術大学など専門の学校を出ていなくてもできる。現に私は一般の四年制大学文系学部の出身だ。どの学部を出ているかは問題ではない。

感性だけではないと書いたが、それはなぜかというと、クライアントは表現に「なぜ?」と聞いてくることがほぼ確実で、根拠を知りたがる。ギャランティを払う側ということもあるが、むしろ意図を知り、理解、納得し、自分達による広告だと思いたいからだろうと思う。クライアントに代わってクリエイターが作った広告に対して、自分達が出す広告だという自覚と責任の表れだと理解している。

そのためにも、そこで感性の次に問われるのが表題にもある

【 論 理 】

だ。むしろ表現に【論理】がないと仕事にならないと言っていい。例えば「なぜ赤なのか?」と問われた時、論理的説明が必要になる。『何となく赤』だとイメージと違えば変更を要求される。しかし【論理】があれば『なるほど』となり、イメージと違っても納得を得られやすい。それでも変更を要求されることもあるが、赤を活かしつつになることが多い。

そういう論理が表現全体に必要になる。「なぜこの書体なのか?」「なぜこのコピーなのか?」「なぜ背景はこの写真(イラスト)なのか?」「なぜこのコピーの位置はここなのか?」などなど・・・。

こういう問いに論理的に説明ができなければいけないのが広告制作で、そういうやり取りをするのは、クリエイティブプロデューサー(あるいはクリエイティブディレクター)の役目になる。場合によってはアートディレクターが説明する。それゆえ、クリエイティブプロデューサーなどはデザインの専門学校や専門大学を必ずしも出ている必要はない。

基本的な感性を先天的に兼ね備えているに越したことないが、広告的感性は実務をこなしているうちに何となく身に付く。一方で私の立場は、エンドユーザー感覚を持ち合わせていることも必要だと思っている。つまり実際に広告を見る人の感覚、素人感覚の役目があるということだ。感性ばかりに長けてしまうと、いわゆる素人感覚と乖離してしまい、実際に見る人との間にズレが生じてしまう。広告は芸術作品ではない。

なぜ論理が必要になるのか。それは広告制作には必ずコンセプトがあるからだ。要するに“どういう広告にするか”ということ。

コンセプトは広告を制作する上での軸

となる。その軸がないと、表現が無限にあるだけに後々迷走し、疲弊することになる。

まず広告のコンセプトを考え、クライアントに提案、了承を得た上で、クライアントも含めて全員と共有しながらコンセプトに沿って制作していく。論理説明の拠り所にもなるので、コンセプトの設定は極めて重要となる。

木に例えると、コンセプトは広告制作の『幹』であり、その幹に沿ってデザインを考え、コピーを考え、全体のレイアウトを考えていく。それらは『枝』になる部分だ。幹となるコンセプトを考えることは意外と地味な作業だが、枝を伸ばすには無くてはならないものだから、最も肝となる作業と言っても過言ではない。

多くの人が関わる仕事でもあるから、コンセプトは旗印的な役割もある。迷ったらコンセプトに戻ることもあるし、コンセプトが明確で揺るぎないほど、論理的な広告制作が容易になる。私なりの言葉で表現すれば『美しく美しい広告』を制作できるということになる。

広告は感性と論理でできており、制作の現場では論理が常に求められる。時々問題になり中止や削除に追い込まれる広告もコンセプトはあったはずだが、枝の伸ばし方に社会との認識のズレがあると、批判や非難を誘発してしまう。あと一歩踏み込んで考えれば回避できたかもしれない、このあと一歩こそ【感性】の部分だろうと思う。

しかしながら、こうしたことはあらゆることに通底しているのではないだろうか。新商品や新サービスを考える時、必ずコンセプトを考える。飲食店における新メニューにしてもそうだ。コンセプトは物事を始める時の、

羅針盤

になることは無意識にせよ経験的に知っている。プライベートにおいても無意識的にコンセプトを考えている。そこには必ず論理がある。

メンタルサポート事業

【広告】と【幸告】個人的見解

ここ数年、【広告】と【幸告】の違いは何だろうか?と考えている。未だによくわからない、というのが本当のところだ。そもそも【幸告】という言葉は私の造語で、一般的に使われていない。

なぜ、そんなことを考えるようになったのかというと、起業して数年した頃、ふと【幸告】という言葉が浮かんだことがキッカケだ。以来自分にとっての【幸告】とは何だろうと思い巡らせた時、心地いい気分になり、もっと見ていたいTV-CMがあった。今でもそれは変わらない。

そうだ 京都、行こう。

もうお分かりだろうと思う。四半世紀続いているJR東海の広告だ。東海道新幹線を宣伝しているのに、東海道新幹線は一切出てこない(初期の頃こそ最後にチラッと出ていた)。暗に東海道新幹線の利用をアピールしている。コピーも秀逸だと思った。

京都と言えば、首都圏で中高生時代を過ごした多くの者にとって『修学旅行で行ったところ』と言っていいだろう。それを映像美と共にあえて思い出させるコピーだと思った。(そういえば大人になってから行ってないな)『そうだ 京都、行こう。』という具合だ。

首都圏に住んでいれば、夜行バスはあり得ても多くの人は東海道新幹線に乗って行こうとするのが自然だろう。まず飛行機は考えない。この広告で東海道新幹線に乗ろうと思ったわけではないにもかかわらず、東海道新幹線を利用することになるということは、即ち“JR東海を利用すること”なのだ。

それから全日空の『夢見るヒコーキ。ANA』もBGMと併せて【幸告】として大好きだった。あえて飛行機を『ヒコーキ』と【ひらいている】ところも奥行き感があっていい。故郷編では少し目が潤んでしまったほどだ。子供の頃は明治製菓(当時)の『カール』。カールおじさんのアニメーション広告は子供ながらにワクワクした。

このようにサービスや商品の直接的ではない広告により、買う、利用することに繋がる広告は、私の中で広告を超えた【幸告】だと感じる。そういう意味での【幸告】は読者の中にあるだろうか?私のように思わずともよく、もっと直球的なあの広告がいいという人もいるだろう。それはそれでいいと思う。

つまり、【広告】と【幸告】の違いは各々の人の心に何らかの

“ ト キ メ キ ”

を与えたかどうか。この“トキメキ”は『心地よさ』や『面白さ(ストーリー性など)』『ワクワク感』でもいいし、あるいは『憧れ』でもいい。ただ私にとって『便利そう』とか『お得だな』などと思うものは【広告】であって【幸告】ではない。私は現実的な類のものはトキめかないから【広告】に分類している。

この差は何だろうと考えた時、やはりありきたりな言葉で恐縮だが、

夢があるかどうか

ではないだろうか。ある広告に夢を感じれば、その人にとってそれは【幸告】だろう。ここでいう夢とは、その商品を手に入れたり、サービスを体験することによって得られる、

その先にあるもの

だ。それがステイタスなのか、人としての品格なのか、憧れのライフスタイルなのか、はたまた自分ひとりで愉しむ優越感なのか・・・それは人それぞれでいいと思う。

最後に、私にとって【広告】から【幸告】になった商品がある。それは、

ハウス ジャワカレー

だ。簡単に言えば夫婦でカレーを作って食べる、という広告なのだが、そこに最近は『幸福のひとつのカタチ』を見てしまい『いつしかパートナーと一緒に作って食べるならジャワカレーかな』と、ほんの些細な『憧れ』になっている(現時点では・・・)。

『人生会議』ポスター問題を考える

厚生労働省の『人生会議』啓発・普及ポスターが問題になって、掲載中止になった。

『人生会議』という言葉にまずギョッとしたのが、私の第一印象だった。実際には掲載中止になったから、インターネットのニュースで初めて見た。

ガン患者やその家族に支援をおこなっている団体からの抗議が報道されて以降、多分いろいろあって掲載中止になったのだろう。しかし私はその抗議に同調する気にはなれない。なぜなら、ポスターがガンによる死を前提にしているとは思えないのに、抗議内容はあたかもガン患者を前提にしていると言わんばかりで曲解しているように思えたから。ポスターのターゲットは、いわゆる今まさに元気に仕事や勉学に励み、生活を謳歌している一般の老若男女だ。

このポスターについて、いろいろな記事を目にするが、広告制作に携わっている者として、私なりに制作者視点で考えてみたい。

よく見た上での印象は、吉本興業が制作したこともあり、吉本興業主催の喜劇のポスターのように思えた。そうであるなら面白いと思う。しかし、厚生労働省の啓発ポスターとして見た時、どこか違和感があった。その違和感とは、国民の生命に係わる行政を担う官庁にしては、いささか『軽いな』というものだった。

表現に違和感を感じる。

問題のポスターの表現は、当事者本人の嘆きのコピーと、それを言っている当事者役の芸人のどうにもならない歯痒い顔があり、心電図のようなグラフィックのラインで死を思わせている。とはいえ全体的な印象はコミカルだ。ターゲットが元気な一般人であることを思うと、一定の理解はできる。シリアスな内容だけに真面目なお堅い表現にすれば見られないと考えたのだろう。しかし、コピーにもある『命の危機が迫った時』の複雑な感情が入り混じるであろう設定の表現にしては、コミカルに過ぎると思えてしまう。この、

『命の危機が迫った時』の扱い

がしっくりこないのだ。

例えば、コピーは当事者視点ではなく、残される側視点がよかったのではないか。『残される大切な人に後悔させたくない』と思わせるコピーのほうが、

婉曲的で深い意味を持たせることができたのではないか

と。ただインパクトは薄れてしまうかもしれないが・・・。

ビジュアルにしても、モデルのキャラクターも手伝って一見当事者を茶化しているように見えてしまい、ちょっとした揶揄に見えなくもない。むしろ、残される側の姿にフォーカスしたほうが、ここでいう『人生会議』をしておくことの意義に

説得力を持たせることができたのではないか

と思える。

あるいは思い切って、

コピーだけでもいい

ようにも思う。

元々は『アドバンス・ケア・プランニング』と言われたものを一般に馴染みやすくするために『人生会議』という愛称に変更したようだ。『会議』という言葉を使うところが役人らしいといえば役人らしいが、ビジネスライクであたたかみに欠け、無機質で乾いた感じがしないでもない。

厚生労働のホームページを見ると「もしものときのために家族・大切な人、そして医療者と話し合っておきましょう」というのがコンセプトのようであるから『会議』としたかもしれない。ただ人生や命はウェットなものであり、フィロソフィックなものであると思うから、ビジネスライクな『会議』という言葉との結合は馴染まないように思う。

コンセプトから考えた時、例えば『もしもプラン』『三者計画』『充実ケア』のような言葉が浮かんだ。そのためには会議と言わずとも家族などと話し合いはおこなわれるわけだから。

今回の問題でクライアントである厚生労働省にしても、制作した吉本興業にしても、双方に共通して感じたことは、

生への深慮と命へのデリカシーの不足

だった。

それから委託費という4,070万円もデリカシーのない金額だ(笑)